これからの文章はボクなりの考えですので、読まれて不愉快になる方がいるかもしれません。
その時は あしからずです。
宗教って何でしょう?
ボクは 生きる上での学び 『学問』だと思っているんです。
一言で終わってしまいましたね・・・・・・・・・・・・
ソレを効率良く広める為に? 教えを見える形にして親近感を持たせる為に?
『教え』の意識を増幅する為に 壮大な建物や 壮大な崇拝物が つくられるようになったと思うんです。
仏教で言えば 寺や仏像など キリスト教で言えば 教会や十字架などね。
ボクが興味を持ち始めた きっかけは仏像でした。
教えなんか知らなくても 東寺に行けば 腰が砕けるような感動があると思うんです。
でも
仏像は『教えの意識』を増幅する為のオプションであって、教えじゃないんだよね。
ボクは『教えの意識』が無いので、崇拝物?じゃなくて造形物としての見方なんだよね。
でも そうなってくると 『教え』の方が気になってきたりしませんか?
その『教え』を理解した上で 仏像を見たくなるのは当然なのかな?
もしソレを 理解したのならば 仏像は造形物じゃ無くなって 崇拝物になってしまうのかな?
ソレも ソレで 少し寂しいかもしれません。
ピカソの絵を 何の知識も持たずに見る事と、
ピカソの絵を 一般社会的知識を入れた上で見る事。
『先入観』は良くも悪くも『増幅材』になると思うんです。
『便利さ』 と『不便利さ』 の良いトコ 悪いトコ って言うのかな?
そうなりましたら 取り敢えず お釈迦様の生い立ちからスタートです。
2500年前の話ですので 何処までが どうか? 真実は分かりません。
マヤ夫人の脇の下から生まれたなんて もう その時点で人でなしだし 誕生して すぐに天上天下唯我独尊と言ったとも考え難いし、
こういうのは後々の大乗仏教が お釈迦様の神格化の為に『不思議』を ねじ込んだのかな?
釈迦国の王子として生まれたゴータマシッタールタ
16歳で結婚 子供を儲ける(童貞ではないのは確か)
29歳で 妻子 国を捨てて出家
35歳で 悟りを開き 80歳の入滅まで布教活動に勤しむ
托鉢で頂いた きのこ か 豚肉を食べて食中毒になり 涅槃寂静
もちろん 死ぬまでの間に釈迦国は 違う国に滅ばされています。
そんなお釈迦様の教えを読んでいますと
厳しいことは言いますが、けっこう納得するような内容が多いです。
もちろん2500年前の考えだから 時代も国も違うから 常識や考え方が違ってて当然ですが、
大きく言えば『頼るべきは自分自身だぞ!』って話かな?
ここからが問題なのです。
仏像という 仏教オプションから入ってしまった私は 今でも考え深いトコがあるんです。
お釈迦様は 崇拝物をつくるなと言っているんです。
これに関しては キリスト教も ユダヤ教 イスラム教も一緒なのです。
でも・・・・・・・・・・・・・
何か?
ソレっぽいの あるよね・・・・・・・・・・・・・・・・
教祖様が言いたい事の 10分の1も 理解できてないかもしれませんが、
生きる上での『教え』を多くの人に知ってもらいたいのであって、別に何かを拝むことでは無いと言いたいのでしょうか?
紀元前3世紀頃 お釈迦様が入滅して100年後くらいに根本分裂と言って、
大きく言えば仏教の考えが2つ(小乗仏教と大乗仏教)に別れたんです。
1つは小乗仏教(大乗仏教からのディスりの意味があるので 今は上座部仏教と言う)
お釈迦様の教えに忠実で 個人の悟りを目指す
さっき 言ったように 自分自身を拠り所に生きる教えみたいな感じかな?
自分の意思を良い方向に変えれば 考え方次第で 楽しくも生きられる と言うか・・・・・・・・・・・・
もう1つは大乗仏教
万人の救済を目的として 現実に柔軟に対応する 今の日本の仏教の殆どを占めている仏教です。
教えに関して 具体的な書き方が できないな・・・・・・・・・・・・・・
そして、お釈迦様入滅500年後 仏像が作られ始めるんです。
やはり 柔軟に多くの人を取り込むには 崇拝物が必要になるのでしょうかね。
小乗仏教には ほぼ釈迦如来(お釈迦様)しか登場しないのですが、
大乗仏教には様々な仏が登場します。
如来の種類も多いですし、菩薩 明王 天部など 登場人物が多いです。
そうなりゃ〜 当然 大乗仏教の『教え』を知り、
その『教え』に共感を持っていければ 仏像の意味を見い出す事が できるんじゃないかとね。
『ボクは まだ学びが足りません』を前提に書いてしまいますが、
何かね 確信を突くトコに差し掛かると ぼかしてくるんだよね・・・・・・・・・・・・・
『教え』が『不思議』に ぼかされると言いますか、
『コレを唱えてください』と言いますか、
お経だって お話なんだから 日本語訳にでもしてくれても良いのにね。
聖書だって 日本語訳がちゃんとあるのに・・・・・・・・・・・・・
もちろん まだ学びが足りないので 分からないだけなのでしょうけどね。
ここ100年間の世界 技術の進歩 物理的な物の考えなど 思考の変化を考えれば、
宗教の信仰や生死観など 21世紀には そぐわない話も 多くなってきてるんじゃないかな?
ここからは 少し危険なエリア?
今まで以上に個人的な話になるんですけど、
お釈迦様の教え(小乗仏教)からの 柔軟に万人の救済を求めた大乗仏教
キリスト教ではカトリックからの プロテスタント
何か似てるんだよね・・・・・・・・・・・・・・
これからの時代 『不思議』や『信仰心』では無く、
今度は また小乗仏教みたいな『学び』の時代に入って行くんじゃないかな?
少し話が逸れたので軌道修正
じゃ〜 何で寺に行くのかと言いますと、
やはり お寺の伽藍や仏像を見るのが ただ単純に好きなんでしょうね。
『オプションから入った男の末路』何も解決できず スタート地点に戻りました・・・・・・・・・・・・・・
宗教美術って言う言い方には 語弊があるでしょうが、
宗教美術は 何であれ 凄いと思ってしまうんです。
信仰心と造形とが ミックスされてるからね。
その点 ボクのつくる物には 何の信仰心もございません。
対象が信仰じゃないから 造形の規制がないので自由なのですが、
ソレが仇になる事も多いです。
ただ単純に 無い物ねだりですね。
良かれ 悪かれ 自分にないものに対しての物の見方は、
感慨無量なのです。